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第13回

サンデル教授――オーケストラの指揮者みたいに、1000名を「問題の世界」に誘いこむ

 ハーバード大学で「Justice(正義)」について30年近く授業してきたサンデル教授が来日し、東大の安田講堂で1000名の人たちに授業を行った。教授は学生たちと対話することをとても楽しみにしてきた。しかし、「日本人はとても恥ずかしがり屋で、白熱した議論を展開させることは難しいだろう」と日本の親しい友人に言われ、半信半疑でこの日を迎えた。

 3時間半に及んだ"白熱した授業"を終え、そのほとぼりの中で教授は次のように感想を述べた。(『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業』上/下・早川書房)

―――私が、素晴らしいと感じたのは、みんなが異なる見解を示し、みんなが心に深く根差した信念によって異議を唱えながらもなお、お互いの意見に耳を傾け合ったということだ。そして、問題の根底にある道徳的原理を探ろうとして議論してきたことだ。

 何よりも感動的で、刺激的だったのは、ここにいる君たちと二つの講義で行なった議論が、「哲学は世界を変えることができる」と示してくれたことだ。君たちは意見を闘わせ、正義について共に考える力を見せてくれた。どうもありがとう。


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 この授業で、教授は「正義」にかかわる問題を6つ投げかけた。そのうちの1つは「どれくらいの所得や富の不平等が社会を不公正なものにするのだろうか? 高額の給料を稼いだり巨額の富を保有したりする人もいる一方で、ほんのわずかしか富を持たない人もいるのは不公正だろうか?」である。

 日本の教師の平均年収は約400万円である。いい給料ではあるが、それほど高くはない。ところで、日本で最も高額の所得者はイチローで約15億円、教師の平均的な年収の400倍に当たる。この年収は「値する」ものであろうか? そう尋ねられて参加者の圧倒的多数が「値する」方に挙手した。

 教授はもう一人、オバマ大統領を取り上げてその年収が3500万円であると伝えた。イチローの稼ぎはオバマ大統領の42倍にあたる。この事実が知らされると会場はざわめき、次の2つの発言があった。

○ イチローは単にチームの一員としてプレーしているだけだが、オバマ大統領はアメリカ国民にすべての責任を負い、核兵器使用についての決定権も持っていて世界中の人々への影響力がある。(教授「イチローのしていることは、オバマ大統領のしていることより重要ではないということのようだね」)

○ イチローは人々を楽しませ、多くの人に生きる支えを与えて給料をもらっている。オバマ大統領のやっていることは確かに重要ではあるが、扱っているのは「問題」であって、わざわざ見たいものではない。

 授業は次の段階に進む。イチローの高額収入の半分は税金として徴収され、貧しい人を助けるために使われている。これは間違ったことであろうか? そう問いかけられると、次のように相対する主張が噴出して会場は揺れにゆれた。

A イチローが自発的に寄付するのであればいいが、課税するのは間違っている。

B 行き過ぎた課税は、当人のやる気を失わせる。

C イチローは本人の努力と才能によって稼いでいる。その給料は市場で決められていて、国家がそれを再配分するように強制することは間違っている。

D 政府には貧しい人に対して最低生活基準を保障する役割があるので、その実現のためには誰もが協力しなければならない。金持ちになれたのは社会がその機会を与えてくれてのことであるから、貧しい人を気にかける義務を負っている。

E 「貧しい人々を救うこと」のほうが、「豊かな人の自律の権利」よりも大切だから、政府の課税は正当化される。

F 10億ドル稼ぐ人に5億ドルの課税をしても痛くもかゆくもないし、そのことで貧しい人たちには多大な効用が得られる。

 参加者は「そのとおりだ」とうなずいたり、「確かにそうだが・・・・」と首を傾げたりしながら、自身の認識を吟味しつづけた。

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 優れた授業には学ぶべき原理・原則が数多くふくまれている。サンデル教授の「正義」の授業は深い「政治哲学」の学識によって支えられていて、また、私たち教師が心に刻んで生かしたい授業展開につて教えている。

 授業を受けたある学生は、インタビューに答えて次のように述べた。

―――わざと反対のことを言って、こう引き出すのをオーケストラの指揮者みたいに分かってやっているんだろうなと、存在感があるがそれが威圧感にならないような人間的にすばらしい先生だった。

 指揮者は「楽譜」を深く解釈して指揮し、その楽曲の世界を楽員と創りあげていく。サンデル教授の授業には、参加者はもとより教授自身にも「楽譜」にあたるようなものは存在していない。しかし、まるで交響楽を演奏するかのように「授業展開の道筋」を見通して「学び手の発言」を引き出し、それを織りあわせて授業の深みへと導いていく。「オーケストラの指揮者」みたいであったという実感である。

 周知のように、教授の授業は「自身の知る高邁な知識を順序だてて披瀝し伝達していく」ものではない。参加者の奏でる"音色"(ねいろ)にじっと耳を傾け、その"音色"がきわだつように会場に鳴りひびかせ、別の楽器にもその楽器ならではの"音色"を奏でさせる。共鳴することは難しいであろうと思われるような不協和音を出させたり、教授自らも発したりして学び手をゆさぶり、それぞれの「正義」についての認識をゆるぎないものへと導く。

 ところで、安田講堂でのあの3時間半、参加者のほとんどは黙して過ごした。発言者は30名もいなかったのではないだろうか。サンデル教授は「オーケストラの指揮者みたいな教師」であったというのだが、一言も発言せずに過ごした参加者にとっても、そのように受けとめられていたのだろうか。

 彼らは授業の「蚊帳の外」にいつづけたのではないし、会場に鳴り響く楽曲を「一聴衆」として聞きつづけたのでもない。彼らもまた「演奏者の一人」として授業を楽しんでいた。ひびきわたる"音色"に耳を澄まし、つまり、発言者のことばや教授のことばに共鳴して自身の"奥深くに眠っている音色"をたぐりよせることがあった。思いもよらず"移調"したり"転調"したりするときには、その調べに身を任せて曲調を味わった。そのようにして、「正義」について多層から考える時間を楽しんでいたように私には思える。


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 佐渡裕さんは大阪城ホールを舞台に、アマとプロをふくめた1万人の「第九」をずっと指揮してきた。その経験をふりかえって思うのは「1万人とのコミュニケーションは、引出し上手というか聞き上手でなければいけない」ということで、指揮者として大切なことは「相手の言いたいことを的確に言わせるタイミング」だと言う。(『感じて動く』ポプラ社)

 そのためには、指揮者の中に「『自分たちが到達しなければならない場所』のイメージ」が鮮明になければならない。そのイメージを明確にもっているならば、もし「集団の中で違うベクトルをもっている人がいても、進む方向を間違えることはない」と言う。

 佐渡さんが指揮するときに心していること、それは教師が授業するときに心しなければならないことと重なる。サンデル教授の場合も、「自分たちが到達しなければならない場所」のイメージを1000名の参加者と共有して授業に臨んでいた。そして、参加者に的確なタイミングで発言を求め、その発言を生かして別の見解をさそいだし、そうして「到達しなければならない場所」に向かって歩を進めていった。

―――指揮者のすぐれた曲の解釈と指揮により、第一バイオリンがすぐれた音を出せば、それが他の楽器にひびいていき、他の楽器もすぐれた音を出す。それがまた第一バイオリンにもどっていって、第一バイオリンもさらにすぐれた音を出すようになる。いつでも個人の出したよいものが全体に影響し、それがまた個人にもどってきて、その個人の可能性をさらに引き出すことになる。―――

 このように述べるのは音楽家でも音楽評論家でもない。それは「斎藤喜博」という教育者で、齋藤は「教育の場合も同じである」と言葉をつなぎ、授業の醍醐味を明らかにしていく(『授業』国土社)。

 そういえば、斎藤は「授業の展開」について語るとき、リズムとかテンポとか旋律とかの音楽用語を用いることが多かった。たとえば、『教育学のすすめ』(筑摩書房)には、次のようなくだりがある。

 「すぐれた授業は、一時間の授業の流れのなかにかならずリズムがあり旋律があり、音色のようなものがある。また、衝突・葛藤があり、衝突・葛藤の結果として生まれる発見がある。授業者である教師は、そういうリズムがあり旋律があり、音色があり、衝突・葛藤が起こるような授業をつくり出すことにつとめなければならない。」

 また、次のようにも語る。「異質なものをつくり出し、それを激しく衝突させ葛藤を起こさせることによって、新しい思考とか感情とかはつくり出されてくるのである。異質なものがぶつかった結果として、リズムが生まれ、旋律が生まれ、音色が生まれ、ドラマが生まれ、そのなかから新しいものが生まれてくるのである。」

 考えればふしぎなことである。《すぐれた授業》を展開する教師には「オーケストラの指揮者」と同じ資質がそなわっていて、《すぐれた演奏》を指揮する音楽家には「授業を的確に組織する教師」のそれと同じ資質がそなわっている。

校長 佐久間勝彦

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