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第9回

生まれ変わる瞬間、私たちの「いのち」も透きとおります

生きものは「いのち」を移し替えようとするとき、身を透きとおらせる。

このことを教えてくれたのは、佐藤初女(はつめ)さんです。初女さんは今年87歳、青森県の岩木山のふもとに「森のイスキア」という家を建てて16年が経ちました。

日々の生活のなかで心の疲れた人、生きる糧を見失ってしまった人がどこかで話を聞いて、毎日のようにイスキアを訪ねてきます。初女さんは訪れ来る人に旬の料理をつくり、円いテーブルでいっしょに食事してくつろいでもらいます。

初女さんは、例えばお米は手のひらでたいせつに洗いますし、ご飯が炊き上がるときは心を躍らせて喜びます。台所は様ざまな「いのち」とふれあう場所なのです。カボチャやジャガイモ、ホウレン草などがささやく物語に耳をすましながら、その小さな「いのち」を活かしてどのように料理しようかと考えます。

『初女お母さんの愛の贈り物』(海竜社)によれば、「森のイスキア」には種々の重石が20個以上も置かれているそうです。漬物が苦しくなることのないように、いつも、ちょうどいい重さの石をのせたいからです。

初女さんは、次のように述べます。(『こころ咲かせて』サンマーク出版)

「ほんとうは、悩んでいる人は自分で答えを知っています。心のうちをすっかり話したとき、自分からふとそのことに気づきます。自分で気づいたことこそが、その人が必要としている答えになると思います。(中略)食べている人の表情が、パッと変わる瞬間があります。それは「おいしい」と思った瞬間です。そのように感じて一口、二口と食べすすむうちに、心の扉が少しずつ開いていくのです。」


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野菜を茹でておいしいおひたしをつくりたいとき、いつ火を止めたらいいでしょう。大地に青々と育ってきた野菜が、おひたしに「いのち」を変える瞬間の判断です。時間を目安に止めたり、やわらかさを手で確かめたり、日頃の勘で止めたりする人が多いにちがいありません。

しかし、初女さんの火の止め方はそのいずれでもありません。ホウレン草や小松菜の茎が透きとおって透明になった瞬間に、火を止めるのです。その瞬間を逃すと野菜は「いのち」ではなく「物」になってしまうからです。野菜の「いのち」が「私たちのいのち」と一つになるために生まれ変わるこの瞬間を、初女さんは「いのちの移し替えの瞬間」と呼んでいます。

「いのち」を移し替えるときに身を透きとおらせるのは、青物に限られません。ゴボウやインゲンも鍋で炒めていると、さっと透明に変わる瞬間があるそうです。また、蚕はさなぎに変わる時に最後の段階で一瞬、透明になりますし、セミも羽化する時は身を透きとおらせます。

土で練った器が焼き物に生まれ変わるその瞬間もまた、窯の中で真っ赤に透きとおって見えなくなります。野菜も蚕も焼き物も、新しい「いのち」に生まれ変わっていく時をちゃんと知っていて、その時が来たことを身を透きとおらせて教えてくれる。初女さんはこのように語ります。

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「峠」とか「山」という言葉を聞いて、どういう動詞が思い浮かぶでしょう。《越える》という動詞もきっと挙げられると思います。

《越える》には、行く手に立ちはだかる障壁を何とか乗り越え、その向こうにひろがる世界を一望する晴れやかさが感じられます。流れの激しい川をよろけながらも越えて渡ったならば、ほっとして安堵の胸をなで下ろすでしょう。

ところで、「授業」と言われて思い浮かべる動詞として、《越える》を挙げる学生がいました。私には思いつくことのできない動詞です。

険しい山道を登りきって、ようやく見晴らしのひらけた峠にたどり着いたそのときに感じるすがすがしさ。身を流されながらも、急流を渡りきったときにいだく安堵感。それらに近い思いを、授業のなかで味わったことがあるのでしょう。

授業を毎日受けていれば、「自分にはとうていできっこない。できなくたっていい」と投げやりになってしまうことが誰にもあります。

小学時代、何度やっても逆上がりができず、憂鬱になったことはないでしょうか。分数の割り算をどうしても間違えてしまい、「×」ばかりもらって自信をなくしたことはないでしょうか。

しかし、それでも歯を食いしばって練習を重ね、ついに逆上がりができるようになったとき、また、計算の仕方がようやく分かって解けるようになったとき、そのときは誇らしく思ったにちがいありません。「それまでの自分」を乗り越えた瞬間に立ち会ったからです。


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「授業」と言われて、《自分を好きになる》という動詞を挙げた学生もいます。授業のなかでどういう出会いがあると、「授業」から《自分を好きになる》という動詞を思い起こすことができるのでしょう。

有森裕子さんはアトランタ・オリンピックのマラソンで、銅メダルに輝きました。そのとき、「はじめて自分で自分をほめたい」とインタビューで語りました。《自分を好きになる》という動詞には、有森さんのその言葉にも似て、自分の気づかなかった一面が引き出されて、心のはずむ様子が感じられます。

そういう幸せな思いをいだかせた授業は、何年生のときに受けた何の教科の授業であったでしょう。それまで知らずにきていた"すてきな自分"に出会って、思わず顔がほころびた。そのときのことは、大学生になった今も忘れられないのです。

私たちは、小学生のときから数え切れないほどの授業を受けてきています。そのほとんどの授業は心に残ることなく、すでに記憶から消え去っています。しかし、"すてきな自分"と出会う機会に恵まれたり、それまでの自分を《越える》瞬間に立ち会ったりした授業は、からだとこころにしっかり刻まれて、忘れ去ることがありません。

学びの前面に立ちはだかって、どうしても越えられずにきた「ハードル」です。その障壁をついに跳び越えたとき、子どもの心と身は「窯のなかの土が陶器や磁器に生まれ変わる瞬間」のように、一瞬、透きとおっていていたのもしれません。 

校長 佐久間勝彦

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