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第8回

なぜ人は、学校に行かなければならないのか

なぜ人は、学校に行かなければならないのか。息子にそう聞かれて、どう答えていいか分からなかった母親は「行きたくないのなら行かなくていい」と言いました。それで、Aさんは小学6年から中学卒業まで学校に通いませんでした。

Bさんは「人間が生きていく上で必要な知識は、自然に身についていく。学校に行くと社会性が身につくと言うが、今の学校は子どもをゆがめてはいないか」と、学校に詰め寄りました。学校からは反論がありませんでしたので、小学3年の娘は学校に行かせることをやめました。(産経新聞『じゅくーる』取材班・『学校って、なんだろう』新潮社)

世界に目を向けるならば、学校などそもそも置かれていない地域があります。たとえ設置されていても、学校に通えるのは裕福な一部の子どもで、朝早くから遠くまで水汲みに出て、短い生涯を終える子どもたちはけっして少なくありません。


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大江健三郎さんは『「自分の木」の下で』(朝日新聞社)を著し、子どもから大人まで、多くの人たちに16のメッセージを贈っています。

その冒頭に置かれた最初のメッセージは、「なぜ子供は学校に行かねばならないのか」です。この問題について、大江さんは2度にわたって考えることがありました。

「大切な問題は、苦しくてもじっと考えてゆくほかありません。しかもそれをするのはいいことです。たとえ、問題がすっかり解決しなかったとしても、じっと考える時間を持ったということは、後で思い出すたびに意味があったことがわかります」

「じっと考える時間を持った」ということだけでも、意味があったことになる。そういう「大切な問題」の一つに、「なぜ子供は学校に行かねばならないのか」があるのです。

大江さんがこの問題と最初に向き合ったのは、1945年、終戦を迎えた10歳の小学生のときでした。そして、長男の光さんを学校に通わせるようになった30代後半から40代のころ、ふたたびこの問題を考える身になりました。

この2度の機会は、誰かに指示されて訪れたのではありません。どうしても考えざるをえない切実な問題として、眼前に立ち現れてきたのです。

そして、ほんとうに幸いなことに、いずれのときも大江さんに「良い答えがやってき」てくれました。「私が自分の人生で手に入れた、数知れない問題の答えのうちでも、いちばん良いものだと思います」と書き記すほど、納得のゆく答えを手中にすることができたのです。

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長男の光さんは、頭部に異常をもって誕生しました。大江さんが解いてきた様ざまな難題の中で、いちばん難しいと感じられたのは、初めて生まれてきた子どもが知的な障害を持っていると医師に言われた時、そして将来も「なおる」ことはないと知った時に訪れました。

この問題は、いったいどのように解いたらいいのでしょう。大江さんにも、奥様や母親や光さん自身にもさっぱり分かりません。この問題が解かれてゆくためには家族の中に、後でふれることになる「ある時間」が必要でした。

7歳になって光さんは、小学校の「特殊学級」に入学します。教室にはそれぞれに障害をもった子どもたちが通ってきました。いつも大きい声で叫んでいる子がいれば、じっとしていることができず、たえず動き回って机にぶつかったり椅子を倒したりしてしまう子もいます。

廊下から覗くと、光さんはいつも耳を両手でふさいで、身体を固くして過ごしているのでした。 

「光はどうして学校に行かなければならないのだろう? 野鳥の歌だけはよくわかって、その名を両親に教えるのが好きなのだから、3人で村に帰って、森のなかの高いところの草原に建てた家で暮らすことにしてはどうだろうか?」

わが子と家族にふりかかってきたこの問題の解答を、見事に導き出すことになったのは光さん自身でした。

光さんはしばらくすると、騒がしい音が同じように嫌いな友達を見つけ、教室の隅で手を握りあい、じっと耐えて過ごすようになりました。そして、運動能力が自分より弱いその友達がトイレに行くときは、その手助けをするようにもなりました。

自分が友達のために役立っている。それは、家の中で何もかも母に頼って過ごしてきた彼にとって、「新鮮な喜び」として感じられたにちがいありません。

そのうち2人は、他の友達から離れてFMの音楽放送を聞いて過ごすようになり、1年もたつと、「人間の作った音楽」というのは「鳥の歌」よりもよくわかる《言葉》だと気づくようにもなりました。バッハやモーツァルトといった作曲家の名前を言いあって、音楽を楽しむ2人でした。

小学校を卒業した光さんはその友達といっしょに養護学校に進学し、6年後には高校3年生を終えることになりました。知的な障害をもつ子どものために設置されている学校は、高校でおしまいになります。

卒業式後のパーティーでは、「明日からはもう学校はありません」と何回も聞かされました。光さんは「不思議だなあ」とつぶやき、友達も「不思議だねえ」と心をこめて言い返し、2人とも「驚いたような、それでいて静かな微笑を浮かべて」いました。

学校というのは、光さんにとってもその友達にとっても、ずっと在りつづけるもの、生きていくうえで在るのがあたりまえのものとなっていたのでしょう。「明日からは学校がなくなる」と言われても何が何だか理解できず、不思議がることしかできませんでした。


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光さんが自ら解いて教えてくれた「なぜ人は、学校に行かねばならないのか」の答えについて、大江健三郎さんは次のように語ります。

「いま、光にとって、音楽が、自分の心のなかにある深く豊かなものを確かめ、他の人につたえ、そして自分が社会につながってゆくための、いちばん役にたつ言葉です。それは家庭の生活で芽生えたものでしたが、学校に行って確実なものとなりました。国語だけじゃなく、理科も算数も、体操も音楽も、自分をしっかり理解し、他の人たちとつながってゆくための言葉です。外国語も同じです。/そのことを習うために、いつの世の中でも、子供は学校へ行くのだ、と私は思います」

つまり、光さんが教えてくれた「人が学校に行かねばならない」理由というのは、「自分をしっかり理解し、他の人たちとつながってゆく」ための様ざまな《言葉》を習うところにありました。

ここで《言葉》というのは、国語の授業で習うような「言葉」を指すのではありません。もちろん、正確に話したり的確に書いたりする「言葉」を身につけることはだいじです。しかし、大江さんの言う《言葉》というのは、「自分の心のなかにある深く豊かなもの」をしっかり確かめ、それを他の人に伝え、そして「自分が社会につながってゆく」扉となるものです。

ですから、理科であれ算数であれ、また体操であれ音楽であれ、子どもたちは学校に行って様ざまな分野の《言葉》を習い、「自分」というものを確かなものに育てていくのです。 ところで、「21世紀に生きるあなた方につたえたい言葉をひとつだけ選べ」と言われたならば、大江さんは「ある時間、待ってみてください」という言葉を挙げたいと述べます。

ぶちあたっている問題が解けないからといって、けっしてあきらめたりしないで、その問題を括弧に入れて時間をおく。そして、「生きてゆく」という「大きい数式」を解き明かすために知力を注いでいくのです。

そうして「ある時間」が経ってみると、いつの間にか、括弧にくくっておいた問題が解けてしまっている。そういうことが実際にあります。「なぜ人は、学校に行かねばならないのか」という問題は、そのようにして大江さんの中でも解けていきました。

しかし、「ある時間」が経って括弧をひらいても、問題がそのまま残っていることもあります。その場合には、正面からその問題に立ち向かってゆかなければなりません。ですが、何とかしのいできたその「ある時間」に、「自分が成長し、たくましくなっていること」に気がつくはずだと大江さんは述べます。

校長 佐久間勝彦

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