第2回

嘘を嫌う体をつくる − 一本の線・一つの音・刃物研ぎ

作曲家の武満徹さんはその著『音楽の余白から』(新潮社)の中で、知人から聞いた話だと断って、二人の方を紹介します。

一人は画家です。明治のはじめ、京都のある著名な日本画家のもとには、多くの弟子が習いに来ていました。弟子たちは思い思いに絵を描いて師の指導を仰ぎ、画家として名を上げようと志しました。ところが、その中に《一本の線》を繰り返し引いて、時を過ごす少女がいます。

少女はいつ見ても《一本の線》を引きつづけていて、けっして絵を描こうとしません。来る日も来る日も、線を引きつづけるこの少女を不審に思い、画家はそれとなくその様子の観察に努めました。

この少女は、後年、文化勲章を女性として初めて受賞することになる上村松園でした。松園は数々の気品ある美人画を残しましたが、10代後半のこの時期、《一本の線》を黙々と引いて過ごしていたのです。

描きたい絵があるでしょうが、そういう絵は描かず、《一本の線》を引きつづける。この習練は、よほどのことがないとできるものではないでしょう。

平山郁夫さんは「描かれた線を一本見れば、その絵の『品』がわかる」と述べ、ほんものの画家を志す者には、「これが自分の線だ」と納得できるまで、ひたすら線を引いて過ごす時期があるものだと言います(『ぶれない』・三笠書房)。

上村松園の画集をめくると、すだれの描かれた美人画が数多く見られます。たとえば、48歳のとき第4回帝国美術院展覧会に出品した、二曲一隻屏風の「楊貴妃」の屏風(161.2×188.29p)には、何と高さ1mを超える御簾が2つも描かれています。

そのすだれを見ると、一本一本の線はまるで「ほんもののすだれ」がそこにかかっているかのように引かれていて、実に美しいのです。


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武満徹さんが紹介するもう一人は、尺八の名人です。

その名は記されていませんが、名人は朝早く起床すると、庭に出て尺八を吹くことを慣わしとしていました。ところが、その吹き方はとても変わっていて、その朝、尺八に口をあてて、たまたま吹き鳴らすことになった「最初の一音」を、およそ2時間ほど吹きつづけるのです。

つまり、いま稽古を重ねているある曲を吹くというのではなく、また、「今日はこの音、明日はこの音」というように、ある音を特定して稽古するというのでもありません。偶然、吹いて出た「ある一音」を、2時間ずっと吹きつづけるという《この習練》は、ふつうは考えられません。

「名人が吹きつづける一音は、いつか、鉱物のように、無限の色彩と陰影を表している」と、武満さんは書き記しています。

画家にとっての《一つの線》、音楽家にとっての《一つの音》。それと同じ《一つの何か》は、芸術の分野に限らずどの分野においてもあるにちがいありません。

小川三夫さんは高校生のとき、修学旅行で法隆寺を見て感激して宮大工を志しました。そして、21歳のとき西岡常一棟梁の初めての内弟子として許され、そのもとで修行を積むことになりました。棟梁からまず言われたのは「道具を見せてみろ」でした。

そこで、鑿(のみ)や鉋(かんな)を見せると、ぽんと捨てられました。こんなものは道具ではないということです。言葉で教え導くということをいっさいしない西岡棟梁は、ある日、「これと同じような鉋屑を削れるようにしろ」と言って、自身の削った鉋屑を渡しました。それは、向こうが透けて見えるような見事な鉋屑です。

小川さんはその鉋屑を窓に貼りました。そして、どうしたら棟梁の削ったそれと同じように透けた鉋屑が削れるか考えました。そのためにしなければならないこと、それは刃物が「大工の道具」となるようにしっかり研ぐことでした。

朝起きて飯を食ったら刃物を研ぎ、作業から帰って飯を食ったら刃物を研ぐ。時間があれば刃物を研ぐ生活がその日から始まったのです。ある真夜中のこと、一寝入りした西岡棟梁は物音に気づいて目を覚ました。物音のする方に歩いてゆくと、裏の納屋に、黙々と刃物研ぎに励む小川さんがいました。

大工修行は「研ぎ3年」と言われますが、小川さんはその常識を飛び越えて、わずか1年で棟梁と肩を並べるほどの腕前に達しました。法輪寺三重塔の再建工事が再開されたときには、西岡棟梁の代理を務めるまでになったのです。

刃物を研ぎつづけた駆け出しの時代について、「後でわかるんだが、修行はそうやってただただ浸りきることが大事なんだな。/寝ても覚めても、そのことしか考えない時期をつくることや。/そうやって暮らしていれば、頭も体も大工らしくなっていく」と、小川さんはふりかえります(『棟梁』・文藝春秋社)。

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一流の人が「一つの線、一つの音、刃物研ぎ」といった修練に打ち込むのは、駆け出しのころに限られません。世間から高い評価が得られるようになってからも、その《一つの何か》の習練は、おろそかにされることがありません。

いったいなぜ、その《一つの何か》に心を砕くのでしょう。小川三夫さんの前掲書を読んでいると、次のような言葉があって、私は身が引き締まりました。

「手道具は体そのものだ。体の一部として、考え通り、感じたとおりに使えなくては意味がない。その最初が研ぎや。(中略) 嘘を教えれば嘘を覚える。研ぎは全くそうや。/ほんとうを覚えるのには時間がかかる。時間はかかるが一旦身についたら、体が今度は嘘を嫌う。嘘を嫌う体を作ることや。それは刃物研ぎが一番よくわかる。」

小川さんが繰り返し繰り返し刃物を研いだのが、「嘘を嫌う体」をつくるためであったとすれば、上村松園が来る日も来る日も一本の線を引いてすごしたのは、やはり「嘘を嫌う体」をつくるためであったのでしょう。

線など何本でも、簡単にさっと引くことができます。しかし、中身のない線はいやらしい。そういう「嘘の線」を引いて、何とも感じない画家になってはならない。ほんとうの線をしっかり体に覚えさせなければならない。そのように自覚して、ひたすら線を引きつづけたのでしょう。

校長 佐久間勝彦

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